酒田五法と本間宗久翁

18世紀初期、徳川吉宗の治世の庄内地方に、不世出の大相場師がいました。本間宗久です。

宗久が生まれた庄内地方の酒田は、最上川の河口に位置し、その流域は多くの穀倉地帯に囲まれ、酒田湊は最上川流域の米を関西地方に送る為の積み出し港でした。関西圏との交易で大いに栄え、堺に匹敵する商都といわれました。36人衆という有力な豪商集団が納める商人気質の強い町で、本間家はこの酒田で頭角を現し、宗久の父、本間原光の時には既に36人衆の一角に選ばれるほどの有力商人でした。

宗久は、幼少期から原光が特別に目をかけるほどの商才がありました。原光が隠居し、宗久の兄、光寿が後を継いだ後も、不測の事態に備えて分家を許されず、将来がはっきりしないまま33歳まで本家にとどめ置かれます。

当時、酒田での米取引はかなり早くから発達していたようで、元禄15(1702)年に藩の許可を得て、公立米座が寺町に出来ていました。宗久は父の手堅く周囲や地域への配慮の行き届いたきめ細やかな商いを叩きこまれる一方で、こうした酒田湊の活気をいっぱいに吸って成長し、実際に米相場で自分流儀を試してみたいと思っていました。その時に、光寿が引退し、正式な後継者である甥の光久が修行を終えて戻ってくるまでということで、宗久は本間家で手腕をふるう機会を得ます。宗久は、兄から財産分与された本間家のほぼ2割の資産を元手に、米相場への投機に乗り出すのです。

宗久は酒田では連戦連勝でした。理由の一つは、宗久が酒田の米相場の価格が大坂の米相場の価格に連動する事をよくわかっていたことが大きかったようです。大坂での米相場の価格を誰よりも早く知る事ができればそれだけ有利だという事です。宗久たちは、健脚ぞろいの飛脚をやとって、通常よりも7日以上早く大坂の米相場の情報を知っていました。もう一つの理由は、宗久が全国の米の生産情報、需給情報を細やかに分析していたからです。今の株式市場で言えば、投資する企業の状況やその製品の情報を徹底的に分析するのと似ています。こういった経済の基礎的な情報を「ファンダメンタル」というのですが、宗久はこのファンダメンタルをとても重視していました。

本間宗久と言えば、「酒田五法」の元祖で、現在のテクニカル分析(チャート罫線分析)の先駆者だとされていますが、実は、明確な根拠がありません。宗久が相場の極意を酒田出身の善兵衛に語った『宗久翁秘録』にはチャートの話は一切ありません。確かに、彼の出身地である酒田が発生元とされる「酒田五法」という株価チャートを5種類に分類する投資手法が我が国の投資家の間で伝えられてきたことは事実ですが、明治以降に出版されたチャート分析の解説書が、「本間宗久」の名前をタイトルに使ったという事がこういう風評の原因だと思われます。宗久が酒田で連戦連勝だったのは、テクニカル分析が原因ではありませんでした。

宗久は光丘と本間家の当主を交代し、江戸にでて相場を挑みますが失敗します。原因は、宗久の読み通りに江戸の相場が動かないからなのですが、宗久はこの経験から、相場は自分が動かすのではなく、相場が動くのだと、相場の予測も大事だが、相場を動かす人の心理こそが大事だと気が付いたのです。自分が正しいと信じる事ではなく、相場に参加している人の多くが正しいと思う事が相場を動かすというわけです。

江戸の失敗の後、酒田で座禅修行を経て、いよいよ、大坂に乗り込み、宗久は恐るべき天才相場師として大成功をおさめます。

「酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵前雨が降る」という歌になるほど、宗久の名は天下に轟く事になります。

宗久は最後は江戸に行き、将軍家の経済指南役のような事もやります。宗久は、享和3(1803)年、86歳の生涯を江戸で閉じます。

       (「日本経済の心臓 証券市場誕生!」著者:日本取引所グループ 監修:鹿島 茂~引用)

 

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